障害者と健常者の違いって?
障害者と健常者って分ける必要あるのでしょうか?
いきなりの質問ですが、果たして何を持って障害者と呼ぶか何を持ってして健常者と呼ぶか?という事なのですが。もちろんきちっとした定義はあると思います。ただ私としては本当に言葉の上でもそんな風に分ける必要があるのか?と疑問に思います。
先日ある5才の子のお母さんからご自分のお子さんが自閉症と診断されたと聞かされました。診断を受けた当初は相当落ち込んだそうです。何故それまで分から無かったかというとそう彼の自閉症の症状は重くなく、親としては子供の個性と思いたいところもあって診断が遅れたとの事でした。
私が見ただけではどこが違うのか分からないくらいなのですが、症状がわかりにくい事でその子の負担は逆に大きくなるそうです。今はそのお母さんは前向きに捉え自閉症について良く勉強しています。ただ当初は障害があるということを受け入れる事は大変なことだったようです。何故受け入れることは難しいのでしょうか?
今日私の通っている教会が毎月発行している雑誌に興味深い記事が載っていました。
私たちは障害と言うと不利な条件と捉えてしまいますが、果たしてそうなのでしょうか?確かに不利な条件かも知れません。では不利な条件っていったいどんなものなのでしょうか?まずそれから考えてみます。
この記事の中には、世の中では容姿が美しい事に非常に重きを置かれます。でも美しいことやハンサムな事はハンディキャップかも知れません。なぜなら美しい、あるいはハンサムな人は心の中にいいものがあるからこの世で成功するのではなくて、外見だけで成功してしまうかも知れないからです。その人がどんな技術や能力を高めたかによって評価されるのではなく、外見で評価されてしまうのです。これは成功ではありません。
またお金持ちという事もハンディキャップかもしれません。お金が悪いわけではありませんが、お金を愛するがためにもっと大切なものを失うかも知れません。
それ以外でも完璧な人間などどこにも存在しないのですから、全ての人が何らかのハンディキャップを持ち合わせていると言っても言いと思います。
では、ハンディキャップを持つ人はいつも助けられる人なのでしょうか?
私がアメリカに初めて住んだ時の最初のルームメイトの一人は脳性麻痺のハンディキャップを持っていました。手の指は硬直していましたし歩くのも歩きずらそうでした。でも彼女は頭脳明晰で大学もジャーナリズムを専攻し学位をとりました。その当時私の英語は全くダメでコミュニケーションをルームメイトととろうにも単語が分からずいつも辞書を持って歩いて、言いたい事があると辞書を開いてその単語を見せるというような生活でした。
そんな時その彼女が優しい単語で離してくれたり、私が辞書を見せるとこちらの単語の方が良く使われるからと良く教えてくれました。彼女はゆっくりとしか話せないので、その頃の私はネイティブの早い英語ではついていけなかったので、聴き取りにくさはありましたが、彼女の離す言葉を注意深く聴いて覚えることが出来ました。
もし彼女にハンディキャップがなかっら、彼女もあのような忍耐力が無く、私のような英語の良く分からない人間に付き合ってくれなかったかも知れません。彼女にハンディキャップがあったからこそ忍耐力というすばらしい賜物が与えられたのではないでしょうか?
そしてその時、ハンディキャップのある人を助けるどころか私は随分助けられた事で、お互いの差というものは無いのだと悟りました。特別に考える方が少し違うのではないのか?と思います。
もちろん環境の問題はあります。バリアフリーも出来ていないところがいっぱいあります。何故それが遅れるのか?障害者の人のため、お年寄りの人のためと特別な人のためにやろうとするからではないでしょうか?
誰でも使えることはみんなのためになる事で、決して特定の人のためだけではありませんよね。
そして誰でも個々に才能が与えられていてお互いにそれを使って助けあう事が出来ると思うのです。障害という言葉はなくしてもいいのではないでしょうか?お互いに出来る事をして出来ないところを助け合うそれが自然なのではないでしょうか?
それぞれが持つハンディキャップのおかげで得られる大切な賜物を人生の中でいただくことが出来ます。
障害という言葉を個性に変えて捉える社会になって欲しいと思いますし、障害自身が神様から与えられた賜物なのかも知れません。
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